旅行・地域

2017年2月18日 (土)

銚子から成田へ

朝、目覚めると、なぜか千葉・銚子のビジネスホテルのベッドの上だった。
 
てな小説チックなことが起こるわけはなく、昨日から仕事仲間とともにマイクロバスで千葉一帯に出張に行ってきたのだ。
 
朝8:30銚子プラザホテルを出発。銚子港、銚子銀座など周辺をざっと観光してから西へ進み、香取市へ。メーンストリームでひと仕事を終え、「小江戸」と自称している旧い商家が立ち並ぶ街、香取市佐原へ。
 
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マイクロバスから降りて、江戸情緒あふれる街並みを散策。
 
ところが、折りからの春一番が巻き起こす砂嵐で、おちおち目も開けておられない状況。
 
八街の砂ぼこり、別名「やちぼこり」と呼ばれる名にし負う砂嵐なんだそうだ。香取市の南西に位置する八街市は落花生の名産地。その落花生畑の乾いた砂が海抜500m以上の山が一つもない千葉県の広い関東平野に吹き荒れる春一番の南風に乗って襲ってくるのだという。ひどい時は1m前方も見えないくらいに視界が遮られるそうだ。
 
それでも、目を傷めないように砂ぼこりを避けながら街並み観光。
 
「佐原町並み交流館」という資料館に入ると、さまざまな史料が並んでいた。
 
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旧い商家の模型は、本物が現存するものばかりだ。
 
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佐原には香取神宮と諏訪神社という2つの神社があり、それぞれの祭りである夏祭りと秋まつりに3日ずつ山車が出る。今年は、昭和の日の4月29日に両方の神社の山車がいっぺんに登場して町内を練り歩くイベントを行うそうだ。
 
そんなこんなで、観光に力を入れていて、最近は外国人観光客も増えているそうだ。ただ、西側に位置する銚子の犬吠埼や東側に位置する成田山などへの観光のついでに立ち寄る客が多いそうで、宿泊滞在型の観光客は少なく、ちゃんとしたホテルもないのだという。
 
そんなわけで、われわれも一路成田山へ。
 
途中、成田山といえば「川豊」ということらしく、うなぎ屋の「川豊西口館」へ。
 
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「大上うな重」をいただく。
 
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うなぎなんて今年初めて。初うなぎ。しかも、こんな立派なうな重を食べるの生まれて初めて(たぶん)。もちろん、自腹ではありましぇ~ん。
 
ダイエット中のことなぞついぞ忘れて、1.5人前にも思えるほどのたっぷりのお重を完食。
シーハッ。
 
再びマイクロバスに乗って、いよいよ成田駅に到着。
 
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駅前でバスを降りて、成田山への参道を20分ほどブラブラ歩く。
 
参道の途中に、さきほどうなぎを食べた「川豊」の本店があった。
 
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店先で板さんが仕込みをしている。
 
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こりゃ、腹が減ってたら誘われちゃうよなぁ。
 
ちなみに、この川豊の隣もその隣もうなぎ屋。成田山名物といえば、うなぎに漬物に羊羹らしい。
 
いよいよ成田山新勝寺に到着。
 
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総門をくぐって階段を昇り、右手にある手水舎で両手と口を清め、正面の仁王門をくぐる。
 
仁王門の中央にある赤い大きな提灯に書かれている「夢の゛し」って何のことだ? と千葉県内在住の同行者に聞くと、「夢の゛し」ではなく、「魚がし」と書いてあるんだと。なぁんだ魚河岸って、夢がねぇなぁ。
 
と思いつつ、大本堂で「家内安全、交通安全、商売繁盛、宝籤大当選」を丁重に祈願。
 
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自動販売機でおみくじ(百円)を買うと、「吉」だった。「財運」は、最初は思う通りに行かないが、最後は望み通りの財産を手に入れられるという。一応、トランプ米大統領並みのリゾート地を持ちたいものだと思っているのだが…。
 
境内に掛けられている絵馬は国際色豊か。
 
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続いて、開運厄除けの釈迦堂
 
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恋愛成就の光明堂
 
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さらにその奥の平和の大塔に鎮座おわします不動明王(撮影禁止)にも、
大本堂で祈願したのと以下同文で祈願。
 
たとえ最初はうまくいかなくとも最後には望み通りに願いが叶うというご託宣を信じて、成田山を後にした。
 

2016年8月10日 (水)

奥州平泉に遊ぶ

夏休み♪
 
去年に世界遺産検定2級を取得して今年は1級に挑戦したものの落第したカミさんの提案で、この日曜・月曜と1泊2日で平泉に行ってきた。
 
8月7日(日)
 
JR新幹線やまびこ163号で14:01一ノ関着。
 
タイムズレンタカー一ノ関駅前店で予約済みのレンタカーを調達。
 
さっそく、毛越寺へ。
 
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平泉といえば、一に中尊寺、二に毛越寺。おらにとっては、エネルギー担当記者として、当時の三菱石油の子会社だった東北石油の製油所見学会に附随した観光として、両名所を訪問して以来のことだから、ざっと二十数年ぶりのことになる。2回目とはいえ、ほとんど記憶に残っていない。
 
まず、この門を入って左手にある宝物館で、藤原氏三代の栄枯盛衰の歴史をざっとおさらい。その先にある松尾芭蕉の句碑「夏草や兵どもが夢の跡」を左手に眺めつつ本堂にお参り。続いて、藤原氏三代が築いた浄土庭園をぐるりと一周。臨池伽藍跡を一つ一つ確認しつつ、往時を偲んでみる。
 
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毛越寺を後にして、近くにある金鶏山へ。
 
登山口にある義経妻子の墓にお参り。
 
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頂上まではわずか220mと案内板には書かれているが、山道をみると、かなりの急峻。それでなくても、みちのくの思わぬ暑さに参っていたので、引き揚げようとしたら、カミさんが登ろうという。
 
仕方なく、ぜぇぜぇ言いながら登りきったが、あと100mあったら命絶えていたことだろう。頂上には小さな祠が一つあり、はるか眼下に広がる平泉の街を見守っていた。
 
いったん山を下りてレンタカーで、平泉文化遺産センターへ。
 
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世界遺産に登録された平泉の文化遺産を紹介する施設とあって、入場料が無料にもかかわらず、かなり充実した内容。歴史史料類だけでなく模型や動画なども駆使して、平泉の歴史をわかりやすく伝えている。
 
とくに、兄・源頼朝に追われた源義経が平泉に逃げ帰った際、育ての親ともいえる藤原秀衡が宴を開いて歓待した様子が模型で展示されていて興味を引いた。
 
京都の鞍馬寺で育てられた牛若丸は、元服して義経と名乗るようになった頃、秀衡の命を受けた金売吉次という商人が諄々と諭して平泉に連れて来た。その6年後、頼朝が平家の世直しのため挙兵すると直ちに参戦。壇ノ浦の合戦に至るまで数々の戦果を挙げるが、その名望に嫉妬した頼朝に追われる身となる。歌舞伎の「勧進帳」で有名な安宅の関を弁慶の機転で切り抜け、ほうほうの態で平泉にたどり着いたわけだが、模型をみると、館の中心に義経やその家臣と秀衡らがごちそうや酒杯を前に座り、眼前に広がる広大な庭には雅楽の奏者や女官ら数多の着飾った人々が列をなしていて、義経は大いに歓待されたんだなぁと今更のごとくほっとする。
 
秀衡の後を継いだ4代目の泰衡は頼朝を恐れるあまり、「義経を守れ」という秀衡の遺言に背いて義経を奇襲。弁慶が仁王立ちで満身に敵の矢を受けて守ったのもかなわず、義経は火に包まれながら妻子とともに自害。その数カ月後には泰衡が頼朝に討たれるという数奇な歴史の一幕に思いを馳せずにはいられない。
 
てなことを考えていたら閉館の時間が迫ったので、レンタカーで旅館へ。
 
平泉町からクルマで30分ほどかかる辺鄙な田舎にある「矢びつ温泉 瑞泉閣」(一関市厳美町)。
 
露天風呂つきの大浴場があるので、内風呂のない安価な部屋を予約しておいたのだが、部屋に案内されて、早速、iPad miniでメールを確認しようとしたら、wifiの電波が弱すぎてインターネットに接続できない。「全館wifi利用可能ということだったのでこの旅館を選んだのに」とフロントにクレームすると、内風呂付の高価な部屋に変更してくれた。もちろん、料金は変わらない。ラッキー♡
 
食事は前沢牛のステーキなどそこそこイケた。風呂も、夜は景色がよく見えなかったが、朝は最高。いい気分♨
 
部屋の窓からの眺め↓
 
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8月8日(月)
 
8:30旅館発→8:40厳美渓着
 
磐井川の渓谷「厳美渓」を見学。
 
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う~ん、絶景。
 
吊り橋「御覧場橋」を渡る。
 
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御覧場橋から下流を眺める。
 
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続いて、ここからクルマで10分ほどのところにある達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)へ。
 
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坂上田村麻呂が建立したそうだ。
 
西側の岸壁にある岩面大佛は源義家が彫らせたという。
 
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さぁ、いよいよ中尊寺へ。ここから約30分。
 
11:00中尊寺の駐車場着。
 
「元気でいないと旅行もできないね」というカミさんの声にうなずきながら、なが~いのぼり坂の参道を汗をふきふきえっちらこっちらとのぼり、ようやく本堂に到着。
 
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本堂は参観料はいらないのだが、その奥にある宝物館「讃衡蔵」、金色堂、それに世界遺産認定5周年を記念して特別にご開帳された秘仏「一字金輪佛頂尊」の3カ所は拝観料がいる。すべて拝観した。
 
そのほかにも、寺院や神社がそこかしこに散在。できるだけ、お賽銭を投げてはその都度仏さまにも神さまにも「ロト6あるいはロト7の大当たりをひとつよろしくお願い奉ります」と拝んできた。これから、その効果が楽しみではある。
 
12:30中尊寺発→13:20猊鼻渓着
 
途中の義経館も見学したかったのだが、猊鼻渓の舟下りの時間が読めなくて、立ち寄らず。日本百景の一つ「猊鼻渓」がこの旅最後の訪問地となった。
 
まずは、天ぷらそばでお腹を満たし、舟下りのチケットを買って乗り場に並ぶ。大人1枚1600円で90分の川上り・川下りが楽しめる。
 
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両岸に切り立つ岩を眺めながら進むと、川の中にはハヤやコイがエサを求めて船についてくる。水面にはカモも。30分くらいで、獅子ケ鼻岩とか大猊鼻岩とか呼ばれる岩壁のある場所に到着。5個100円の運玉を対岸の岩の穴をめがけて投げたりして時間を過ごしたあと、帰り船に乗る。
 
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帰り船では、船頭さんが鍛え上げた喉を聴かせてくれた。歌うは「げいび追分」。船べりによりかかり、帽子ごしの陽光に照らされながらそっと目を閉じて耳を澄ます。川のせせらぎ、セミや鳥の声、そよ風に揺れる緑葉の擦れ音、船頭さんの歌…。
 
う~ん、ごくらくごくらく、癒されるぅぅぅぅ。
 
15:40猊鼻渓発→16:00一ノ関駅着。レンタカー返却。
 
お土産を物色したあと、洒落た喫茶店に入り、冷え切ったビールとかき氷で時間をつぶす。
 
18:37発新幹線で帰途へ。

2016年3月21日 (月)

墓参りで栃木へ

年に2回恒例の墓参りのため3月19日(土)、20日(日)と1泊2日で栃木へ。

19日(土)は義兄夫妻と小山市の小山グランドホテルで合流し、一緒に夕飯を摂る約束なので、それまで宇都宮市に遊ぶ。

まず宇都宮美術館へ。

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初めて見学したが、シャガールやカンディンスキーなど世界の一流どころや川上澄夫ら版画などかなり見応えのある作品がたくさん収蔵されていて驚いた。企画展の「齋藤富蔵展」も良かったし、椅子のデザイン展も楽しめた。これで入場料600円は安いっ!

美術館内にある創作料理のレストラン「ジョワ・デ・サンス」でランチ。カミさんはパスタのセット、おらはポーク・ステーキ(1530円)。

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食器もトイレも何もかも美術館らしくおシャレでした。

んで、宇都宮市街のど真ん中にある二荒山神社へ。第10代崇神天皇の第一子である豊城入彦命を祭神とし、源頼朝や徳川家康といった著名武将も尊崇したという由緒ある神社だそうだ。

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愛機「富士通ARROES M01」を車のダッシュボードにセット。Yahoo!カーナビの指示通りに栃木市へ。従来の後付カーナビが古くなったので、スマホを代用にしたのだが、ぜんぜん支障ない、というよりも、こっちのほうが断然いい感じだ。

小山グランドホテルに18:00着。義兄夫婦とディナーのコース料理をいただく。ビーフステーキが固い。つ~か、このホテル、もうかれこれ5年にわたり年2回夫婦2組で1泊旅行に来ているのに「いつもありがとう」のひと言もない。おそらく常連客としての認識も記録をとっておく考えもないのだろう。大浴場もなくてこれといって取り柄のないホテルなんだが、小山市や栃木市あたりにはほかにビジネスホテル級の宿泊施設がないので使わざるを得ないのだ。

んで20日(日)。墓参りを済ませたあと、土地の人の案内で栃木市内を観光。

何度も来ているのに、街中をゆっくり歩いたのは初めてだ。

今、蔵造りの街並みを中心とする観光に力を入れているそうで、確かにそれなりの風情がある。

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栃木市のゆるキャラ「とち介」もなかなかいけてるじゃん。

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昼食のため、路地裏に入る。

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手前の立て看板のお店「蔵chic(くらしっく)」へ。

「海鮮ランチ」(2000円)を注文したら、こんな前菜が…。

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長いお皿はホタテのカルパッチョ。

んで、本命。

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最後にドリンク&デザート。

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いただきましたぁ!!

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メーンストリートの一角にある「路傍の石」の山本有三の生家↑など眺めながら市役所の7階建て駐車場(無料)に戻り、栃木を後にして家路に着いたのでした。

2016年3月 6日 (日)

京都・和歌山に遊ぶ㊦

3月1日(火) 旅の空の下で誕生日を迎える。とりたてて感慨はなし。

取材のアポは午後4時、ホテルのチェックアウトは午前11時ということで、ゆっくりと起床。ほぼ独占状態の大浴場での~んびり朝風呂を浸かり、朝食を済ませて午前10:30出発。

まずはホテルの前の駅前通りをまっすぐ駅と反対方面に20分ほど歩いて和歌山城へ。

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お濠を渡ってからかなり急な坂を上がっていく。けっこう息切れする。

あんまり観光客が来ないのだろうか。キャリーバッグをどこかに預けたいのだが、コインロッカーらしきものがない。結局、入館料(410円)を支払うボックスの中にいたおじさんが、「預かりましょうか?」と声をかけてくれたので、お任せした。ボックスの脇の戸を開けて、バッグを中に入れてくれたが、引き換え券みたいなものは一切なし。返却時にはどうやって確認するのだろうか? ちゃんと顔を覚えてくれただろうか?と不安を覚えつつ、天守閣の中へ。

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天守閣から和歌山湾を展望。紀州徳川家は尾張、水戸と並ぶ徳川御三家の一つで、八代将軍吉宗を輩出していることで有名だが、今年はその吉宗公の将軍就任300周年にあたるのだそうで、まずはめでたしめでたし。

この城は連立式天守閣といって、大天守と小天守の間を門や櫓がぐるっと取り巻いていて外に出ることなく巡っていける。んで、ぐるっと一周して外へ。帰りに入館料を支払うボックスに寄ると、さっきのおじさんではなく別のおばさんに交代していた。でも、キャリーバッグはすんなり返却してくれた。ほかに荷物を預けた人はいないのかなぁ?

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御橋廊下を渡って西之丸庭園へ。この橋の窓から眺める天守閣は〝日本一〟と、この橋を作った殿様が自画自賛したとか。

近くのミニ歴史博物館で、展示物を見学。この城内の端っこにあるミニ博物館の入館料は天守閣の入館料の中に含まれているので、天守閣に入るときにもらったチケットを見せればいい。

ミニ博物館は「わかやま歴史館」という名称で、紀州徳川家が代々所有したという金属製の印章「獅子紐印」が目玉かな。同博物館から出ると、もう午後2時近い。どっかで昼飯を食おうと思って、ふと横の電柱をみたら、和歌山市役所14階のレストランを宣伝するポスターが目についた。市役所といえばすぐ目の前。道路の向こう側だ。

さっそく市役所14階へ。

レストランはビュッフェ方式。1300円ほど前払いで払って、勝手に好きな物を食べる。

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ついつい、多めにとりがちになる。だけど、これはっという旨いもんはない。みんなどれも並みの味。1300円だすなら、何か1品に絞ったほうがきっと旨いもんを食べられるに違いない。ラーメンとかかつ丼とか。ただ、デザートは結構いけた。なんしろ、ソフトクリームまである。もちろん食べ放題。といっても、1人前しか食べなかったけど…。

レストランの窓から向かい側のお城を眺められる。

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んで、お城をはさんで市役所の反対側にある「和歌山近代美術館」へ。

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ここは見応えのある美術館だった。ちょうど「宇佐美圭司回顧展 絵画のロゴス」という企画展をやっていて、こちらも大作ばかりがズラリと並んでいて迫力十分。入場料は510円。

美術館の隣には博物館もあるのだが、アポの時間が迫っていたので見学はあきらめた。

仕事を終わって広島駅に着いたら18:30。和歌山ではバスにもタクシーにも乗らず、一日中ずっと徒歩で通した。駅のみどりの窓口へ行き、「東京までいちばん早いやつで」と切符を注文。提案された電車で帰京。

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和歌山駅18:51発JR特急くろしお30号→新大阪駅19:50着

新大阪駅20:03発JR新幹線のぞみ56号→東京駅着22:33

歩数計1万9733歩。

京都・和歌山に遊ぶ㊤

2月29日(月)に京都で丸一日仕事をし、その足で翌3月1日(火)に和歌山で1件取材するという仕事が入ったので、前日の2月28日(日)から京都に入り、ちょっとした観光をすることにした。来月から職場が変わるため、そうちょくちょくと出張旅行には行けなくなるだろうから、楽しめるだけ楽しんでおこうという気持ちもあった。

2月28日(日) 東京駅10:10発JR新幹線のぞみ23号→京都駅12:25着

京都駅から徒歩5分のアパホテル京都駅堀川通(朝食付6100円)に荷物を預け、京都駅前に戻って市営バスの切符売り場で周遊チケット500円を購入。早速、清水寺に向かう。

五条坂でバスを降りると、参道はもう人人人の波だから道に迷うことはない。

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京都の町を着物で歩くことが近年の若い衆の間で流行っているのか、やたらに着物姿が多い。レンタル屋さんも大繁盛なんだろうなぁ。

松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすゞしかるらん 芭蕉

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まず仁王門が見えてくる。右上が西門、その裏が三重塔。さらに経堂、開山堂などを越えて進むとあの有名な清水の舞台がある本堂に至る。

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清水の舞台。下を眺めるとこんな感じ↓

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本堂のすぐ隣に立つ地主神社。縁結びの神との縁を必要としていないのでパス。

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奥の院から帰り道に入る途中で清水の舞台を眺めるとこんな感じ。

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なんか京都っぽいアングルになる。

次は参道を産寧坂(三年坂)から二寧坂(二年坂)へと進む。

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途中、西尾八ッ橋清水店というところで昼食。「京のとろ湯葉丼」(1000円)というのを生まれて初めていただく。

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「とろ~り生湯葉をたっぷりのせて鶏肉そぼろ、人参とジャガイモのすり流しと葛の餡かけであっさり仕上げたおなかにやさしい丼」というのがうたい文句。ごはんはおこわで銀杏ものっている。デザートに生八ッ橋「あんなま」付。

味はまあまあって感じ。病みつきになる味ではない。

二寧坂を抜けると大通りに出て向かいは高台寺、右の坂を上ると京都霊山護国神社。

とりあえず左手に大仏を眺めながら護国神社に向かった。

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お目当てはこれ。坂本龍馬の墓(左)。近江屋事件でともに維新の露と消えた中岡慎太郎の墓と並んで建てられている。2人の銅像も。

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ここには幕末維新の志士1300余柱が祀られていて、ずっと上のほうまで墓がいくつも建てられている。いちばん上には木戸孝允の墓があるそうだが、もうこれ以上昇る気力がなかった。

昭和の杜という太平洋戦争の慰霊碑を抜けると、「幕末維新ミュージアム・霊山歴史館」というのがあったので、ざっと見て回る(入場料700円)。

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坂を下って、今度は高台寺へ。拝観料は近所の「掌美術館」の入場料も兼ねて600円だが、ここはそれなりの価値があった。

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寺を出て参道へ。

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舞子さん!

こっからすぐ近くの八坂神社へ。

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正月に地元の神社でその神社のお札と伊勢神宮の大麻を買ったが、神棚の3つ目のお札を入れる場所が空いたままだったので、ここでお札を買うことにしたのだ。

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境内には屋台が…。

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カニカマの串焼きがうまそうで、つい買っちゃった。400円。

こっからバスで京都駅に戻るともう夕飯時。バスは往復の2回乗って240×2=480円。それを500円の周遊チケットで払ったから差し引き20円の損。なんてこった。

京都駅に着いて、さあ、夕飯は何にしようか、京ラーメンが食いてぇなぁ、いやいや海鮮丼もいいなぁなんて考えてたら、地下街にラーメンと海鮮丼のセットを売っている店があった(笑)。

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1300円(+消費税?)。生ビールも注文。シナチクとキムチは近くのテーブルから好きなだけとれるという仕組みだったが、とらなんだ。

スマホの歩数計は1万9717歩。

2月29日(月) 朝9:00ホテルを出て、四条駅近くのホールで取材。

昼飯時に外出し、錦市場商店街、新京極あたりをぶらつく。

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六角堂をお参りして仕事場に帰着。

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夕方5時過ぎに仕事終了。

烏丸駅17:41発阪急京都本線快速急行→梅田駅18:24着

大阪駅19:27発JR大阪環状線内回り→天王寺駅19:52発JR阪和線快速→和歌山駅20:55着

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1年3カ月ぶりの和歌山である。

前回はトホホの日帰り旅行だったが、今回は宿泊付。つまり生まれて初めての和歌山泊まり~ぃ。てなわけで、駅の近くの居酒屋へ。

入り口を入ってすぐに大きな円形のカウンターがあるので、いそいそと座ると、中のおばちゃんが「寒いからもっと中にお入り」と声をかけてくる。確かに、京都の昼間はポカポカ陽気だったのに、夕方から急に冷え込んだ。おばちゃんによると、和歌山でもこんな寒さは珍しく、寒気団が来ているせいだという。

目の前の大きな網焼き器に「貝」だの「エビ」だの書いてあるので、アワビはちょっと手が届かないだろうけど、ハマグリでも食らうかと思って、「焼き物は何があるの?」と聞くと、「ぜ~んぶ終わっちゃった。あっ、イカが2枚だけ残っている」とおばちゃん。がっくりしつつ、イカを焼いてもらう。

聞けば、午後10時で閉店なんだって。田舎の夜は短い。あとおでんのタマゴと牛スジを各1本、アジの刺身を注文。生ビールと地酒の熱燗を飲んで、仕上げにお茶漬け。締めて2800円ほど。

宿は「紀州の湯 ドーミーインPREMIUM和歌山」 京都のアパホテルよりも同じ朝食付きで1290円高い7390円。そのぶん、部屋も大浴場も立派でした。

歩数計は1万2951歩。

2016年2月16日 (火)

震災から5年企画第2弾

仙台前泊。

朝8:00に車で宮城県女川町へ出発。被災率№1という町である。

1時間半ほどで女川町到着。

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まず、仮設商店街「きぼうの鐘商店街」を取材。

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旧女川高校のグラウンドに建てられた。人影はまばら。あと1年ほどで設置期限を迎える。

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「きぼうの鐘」。もとはJR女川駅前広場にあったからくり時計の4つの鐘の1つ。土台だけを残してきれいさっぱり津波にさらわれた駅舎跡から奇跡的に見つかった。女川の人たちの再起への思いを込めて「きぼうの鐘」と名付けられた。

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その駅舎が見事に再建された。「ゆぽっぽJR女川駅」と言って、2、3階は温泉。駅入り口の前には足湯も。

駅舎3階から海辺を臨むと…

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美しいプロムナード。昨年12月に完成、オープンした女川駅前商店街だ。今の季節、真正面の位置に日の出が上がるという。中央の通りが車が通れないにもかかわらず広いのは、3.11並の津波が再度襲来した際に逃げやすくするためだという。

案内してくれた地元の人は、3.11で4階建てのビルの屋上に設置されている給水塔にしがみつき天から黒い雪、足元から海水が迫る中で、一夜を明かしたという。もう1人は、奥さんの祖父が行方不明のままだ。「ここの人はみんな似たような境遇にありますから(笑)」。
 

2016年2月11日 (木)

震災から5年ということで被災地訪問

「震災から5年」企画の取材で宮城へ。

2月9日(火)

東京駅12:20発JR新幹線はやぶさ19号→仙台13:52着。

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迎えに来ていた車(トヨタエスティマ)で塩釜市へ。

仮設商店街に入居して約4年間営業を続けたあと、昨年暮れに元の所在地に店舗兼工場を新築したせんべい屋さんを取材。津波で元の店舗兼工場兼住宅が全壊、一家途方に暮れたが、90代の店主の味を守りたいと考える30代の孫の思いに、店主も元気を取り戻し、二人で力を合わせて仮設商店街で商売を再開、新店舗を夢見て営業を続けてきたという。

仮設店舗では作れなかった南部せんべいを新店舗のせんべい焼き機で祖父に教わりながら焼く孫。「天候や温度、湿度で焼き具合が微妙に変わるので、爺さんの味を自分だけで出せるようになるのはいつのことやら。爺さんは研究熱心で、今でも毎日、ノートにメモを書きながらせんべいづくりをしているんです」という。

東塩釜駅近くの小さなせんべい店に幸多かれと願う。

仙台に戻り、アパヴィラホテルに泊まる。

朝9:00トヨタエスティマで南三陸町へ。有名な「防災庁舎の悲劇」に象徴されるように震災の被害が大きかった町の一つだ。

同町の志津川にある仮設商店街「南三陸さんさん商店街」に到着し、中に入る前に、商店街入り口付近にあるしゃれたトイレに寄ると、「JR東日本 志津川駅」と書いてある。

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ん? 駅? 線路がないじゃん? 中を見ると、うら若き女性がJR東日本の制服を着て掃除をしており、普通の駅と変わらない切符売り場もある。中に入ってくだんの駅員に聞くと、BRT(高速バス輸送システム)の駅舎なんだそうだ。三陸沿岸の被災した鉄道がBRTで復活したということは聞いていたが、実際に駅舎を見るのはこれが初めてだった。

んで商店街へ。

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なんか、昔良く見たマカロニウェスタンに登場する砂漠だか草原地帯だかの真ん中に出現する町みたい。

でも、取材した笹かまぼこ店の社長は明るくて気さくで元気。初代組合長として商店街の仲間を引っ張り、全国に情報発信してきた。その甲斐あって、天皇陛下ご夫妻も安倍総理も吉永小百合もEXILEもやってきた。

内陸に設けた仮設工場での生産・卸業を中心に商売のほうもほぼ震災前の水準に戻したようで、本格的な工場建設計画も持ち上がっているという。社長自身はまだ仮設住宅住まいだというが、持ち前の明るさで頑張ってほしい。

仙台へ向かう途中の高速のPAで昼飯。三陸マグロとわかめ丼。うめぇ。

仙台市内でもう1件取材をこなし、仙台駅18:19発はやぶさ104号で帰宅。

2015年12月19日 (土)

讃岐高松から伊予松山へ

松山や秋より高き天守閣 子規

四国は高松市と西条市でそれぞれ中小企業1社ずつ取材するという仕事が入ったので、んじゃってんで、松山まで足を延ばすことにした。四国は20年ほど前に香川県の坂出市と丸亀市に行ったことがあるだけだったので、いつかは愛媛県松山市を訪ねたいと思っていたのだ。

12月16日(水)。

9:25羽田発ANA便で10:45高松着。

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迎えに来てくれた会社のお姉さんと一緒に運転手付き公用車で高松市内へ。途中、お姉さんお勧めの讃岐うどん製麺所で昼食のうどんをいただく。

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あくまで製麺所であって、小売りはしていないことになっているそうで、表には看板も何もなく、店の外観は食べ物屋というよりも木工所か何かのようなイメージ。店の中も、作業台のような大きなテーブルが2つ雑然と置いてあるだけ。奥のほうに大きな製麺機が床も壁も含めて全体がうどん粉まるけのような白っぽい感じで置いてある。

で、1玉160円のうどんを2玉買って、自分でゆがいてどんぶりによそい、1種類しかないスープをかける。「ゆっくり身を掬って」と店のおばさんがいうので、その通りにしてうどんにかけたのが上の写真。大根と人参がものすごくやわらかく煮てある。本来、しし肉(イノシシの肉)が入っているはずなのだが、すでに時遅しで、1、2切れしか掬えなかった(涙)。

でも、地元の人しか知らない穴場の店とあって、うどんはめちゃうまい。「高松へ来たぞっ~」と叫びたくなる満足度。

高松市内でひと仕事した後、会社の支店の連中の忘年会にお呼ばれして市内の肉料理店「ひらい」へ。会費は5000円なのだが、支店の連中は毎月積み立てていて、そのうちの1人が体調不良で欠席し、権利を放棄したとかで、そのぶんを小生に回してくれてタダ。やった~ってんで飲み放題ということもあって酔いつぶれた。

ホテルもお姉さんが予約しておいてくれた高松市内の「ホテル川六エルステージ」。1泊5300円で大浴場つきだから文句は言えない。

12月17日(木)。

前夜は部屋に戻るなりバタンキューだったので、6:00に起床し大浴場へ。

朝食を済ませて、ロビーで待っていると、予定通り9:30にお姉さんと若い衆1名の2人が迎えに来て公用車で一路西条市へ。

松山自動車道で新居浜を抜けて西条に入ってすぐのPAに道の駅が併設されているところでトイレタイム。瀬戸内を見下ろす高台にあり、見晴らしの良い場所に西条出身の俳人渡部抱朴子の碑が立っていた。

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山石鎚海瀬戸内や秋晴るゝ 抱朴子

あいにく雲の合間に青空は見えているのだが小雪もちらつくという狐の嫁入り天気で、名峰石鎚山はよく見えなかったが、瀬戸内海はよく見えた。

西条で高速を降りて、まずはお姉さん推薦の伊予西条駅近くのお店で昼食。美容室のような外観の「白亜館」という店なんだが、メニューには飲み物だけしか書いてない。食事はバイキング方式で好きな物を食べたいだけ食べられるのだという。んで、料金は飲み物プラス250円というわけ。まぁ、普通の料理が並んでいて、それもカレーライス、スパゲッティ料理、パン料理など主食系が多かったんで、そんなに食べられなかった。もしやスープは逸品かもと期待したが、普通の卵とじスープだった。でも、お姉さんは何度も料理を取りに行っていた。コーヒーは400円なので〆て650円。安っ。

西条市でもう一つの仕事をこなしたら15:00。んじゃ、あとは伊予西条駅まで送ってもらってお別れしようと思ったら、なんと西条から片道1時間はかかる松山のホテルまで送るという。この人たちはほかに仕事ないんかいと思いつつ、ありがたく送ってもらう。これで交通費3000円近く浮くもんなぁ。

16:00過ぎ。松山市は道後温泉の「ホテルメルパルク松山」に到着。ここで公用車ご一行と今度こそ本当にお別れし、いよいよ自由気ままの一人旅。ホッ。

部屋はツインに和室3畳がついて7810円。一人じゃもったいないような部屋だけど、平日は空いているようだ。松山と言えば、夏目漱石の坊ちゃんも通った銭湯「道後温泉本館」。その道後温泉本館は3階建てで、410円から1550円まで4種類の風呂があるのだが、ホテルでその中の「神の湯」(840円)の入浴券をくれた。

さっそく、浴衣と羽織に着替えてホテルでタオルとシャンプー、石鹸を小さな竹籠に入れた「湯かごセット」(無料)をもらい、ホテルの雪駄を履いて道後温泉本館へ。

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ホテルからここまで徒歩5分ほどなのだが、すっかり身体が冷えてしまった。周りを見れば、こんな冬空に浴衣姿はおらだけだ。だけど、スーツ姿で銭湯ってのもなぁと思いつつ、あまりの寒さに、まず腹ごしらえをすることにした。風呂から出てから食事すると、湯冷めをしかねないためだ。

周囲を見渡すと飲食店が数珠つなぎ。中でもいちばん近い「道後麦酒館」へ。カウンターに腰かけてメニューを見ると、赤シャツビールだのマドンナビールだのそのまんまやんけと思える名前の地ビールがズラリ。まずは坊ちゃんビールのグラスと、つまみに鯛のカルパッチョとふぐ皮のポン酢和えを注文。続いて、漱石ビールをグラスで追加し、さらに米焼酎のお湯割りをいただく。〆に松山名物の鯛めしにしようと思ったが、量が多そうなのでちょっときついかもと考え直し、軽めの鯛茶漬けで仕上げた。

んで、お湯♪。道後温泉本館の下駄箱に脱いだ雪駄を入れて、ホテルでもらった入浴券を番台のおじさんに渡して奥に入ると風呂と部屋の種類を説明する看板がある。

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そっから神の湯を目指して2階へ上がると大広間につながる。大広間には持ち物を入れる篭と座布団がずらっとたくさん並んでいて、係りのおばさんがまずは自分の場所を選べというので、一つの座布団に座る。すると浴衣を渡してくれたが、こちとらすでに浴衣姿なのでポカンとしていると、「汗ふき代わりにどうぞ」と言うので、なるほどバスローブ代わりかと納得。んで、その浴衣を持って、入り口とは別の階段を降りると「神の湯」の脱衣場と風呂のある場所が出現。「神の湯」には同じくらいの大きさの風呂が2つ隣同士に独立して並んだ部屋にあって、東湯と西湯というらしい。

脱衣場には衣服を入れる篭と貴重品を入れる小さなロッカーも備えてあるので、さっきの大広間の篭は何なのかなぁと思う。大勢のおばさんたちが見張っているから、オーバーコートなどの洋服はあっちの篭に入れるのかも。なんて考えながらザブンと西湯へ。客は5人ほどしかおらず、広い湯船でのびのびと手足を伸ばす。

何年か前の年の暮れに放映されたNHKドラマ「坂の上の雲」で、秋山真之役の本木雅弘とその父秋山久敬役の伊東四朗の二人が風呂に浸かって話しているシーンを思いだした。確か、こんな風呂だったから、あれは帰郷した真之を久敬がこの道後温泉に誘ったんだなと一人合点がいった。とたんに〽ちいさな~光が~…とサラ・ブライトマンの歌う主題歌が頭の中に流れ始めた。

東湯にも浸かったあと、汗ふき代わりの浴衣を着てさっきの大広間へ。そこで改めてもとの浴衣に着替えていると、係りのおばさんがお茶とせんべいを持ってきてくれた。そうか、この大広間は風呂上がりにお茶を一服するためにあるのかと納得。やっぱり昔ながらのしきたりは何事も風流にできとるなぉと感じた次第。

12月18日(金)。

6:00起床。今度はホテルの大浴場へ。さすが道後温泉にあるだけあって、それなりに大きくて立派な風呂だことと感心。お湯は昨夜のと同じ透明度が高くさらさら系。

朝食は最近のおらが行くホテルでは珍しく、バイキングではなくお膳方式。こりゃ楽ちん。

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ほお、朝から豪勢な食事だわいと運ばれてきたお膳をよく見ると、いつものホテルのバイキングにあるものと内容は一緒でした。

8:55にチェックアウトし、まずは徒歩5分の「子規記念博物館」へ開館と同時に一番乗り。入場料400円。

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音声ガイド(100円)を借りて、じっくり見て歩く。2階と3階の2つのフロアに正岡子規にまつわるさまざまな展示物が並べてあり、ところどころにビデオで説明する設備も。

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朋友夏目漱石と子規が起居を共にした「愚陀仏庵」を再現した部屋には自由に入れるので、とりあえず畳の上に寝転んでみた。

内容が盛りだくさんの博物館とあって、見学を終えるのに2時間ちょうどかかった。

次にそこから徒歩5分の道後温泉駅へ。

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汽車の「坊ちゃん列車」にも乗れるというのだが、時刻表がどこにあるのかわからないので、たまたま出発する普通の路面電車に乗って大街道駅へ。

11分で大街道駅へ到着。運賃一律160円。そこから徒歩5分の「坂の上の雲ミュージアム」へ。

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安藤忠雄設計というコンクリートとガラスの近代的な建物で、入場料400円。司馬遼太郎の小説を松山市関連中心になぞったような展示になっている。主人公の3人、すなわち秋山好古、秋山真之、正岡子規が松山で暮らしたのは幼少の頃だけで、小説の大半は東京や留学先の生活、そして日露戦争の旅順や満州、日本海での戦闘が舞台なので、どうしても展示内容的には薄い感じが漂う。小説の書き出しの部分を反映した展示は充実しているが、次第に尻すぼみがちというのは、テーマ設定上仕方ないことなんだろう。

続いて、敷地続きの場所にある旧松山藩主・久松定謨の別邸「萬翠荘」へ。

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入場料300円。大正ロマン漂う洒落た洋館で、テラス越しに薄地のカーテンを通して入る陽射しの中に昭和天皇が皇太子のときに食事をされたというテーブルと椅子が置かれてあり、そっと自分がそのテーブルで食事をしている姿を思い浮かべてみた。

外に出て、ふと隣の建物を見ると、「茶房あい」とある。そういえばすでに午後1時過ぎ、お腹が減っていることに思い至った。

んで、茶房あいへ。メニューをみると、うどんが何種類か並んでいるほかにはカレーライスのみ。いずれも価格は安い。カレーライスは500円だ。へぇ~、なんて良心的なんだろう、とメニューをよくよく見ると、障がい者が中心になって働いている施設のようだ。きっと自治体の補助があるのだろう。早速、カレーライスを注文。

運ばれてきたお膳には豚肉のカレーライスのほかにきゅうり、レタス、ゆでたまご半個のサラダ、さらにミカン1個がついてきた。しかも、カレーライスのうまいこと。食べ終わって、ブレンドコーヒーを注文。食事後の飲み物は一律100円だというので、再度感激。それにしても、昼時だというのに従業員は障がい者らしい若人が4、5人もいるのに客はおらだけ。こんなに安くてうまい店なら、毎日来ても良いのに松山の衆はどうしたんだなもしと、松山弁で思う。

茶房あいを出て、そこから「ロープウェイ街」という通りに入り、7、8分歩くと松山城に登るロープウェイ乗り場に着く。ロープウェイorリフト往復と天守閣見学料1530円(うろ覚え)のチケットを自動販売機で買って乗り場へ。待つのは大嫌いなので、すぐに乗れるリフトに乗ったら、途中でロープウェイがリフトに揺られるおらを追い抜いていった。

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リフトで登っていくと、山の上に天守閣が見え始める。

リフトから降りて徒歩で10分ほどさらに登るとようやく天守閣が現れた。

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天守閣内ではちょうど、華道家・假屋崎省吾展の真っ最中。

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刀剣や兜、鎧などの常設展示物のほかに生け花まで楽しめた。

天守閣の外を眺めると松山の街の向こうに瀬戸内海が広がる。

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いや~、晴れてて良かった。

天守閣から降りてきて気がついたのだが、松山城に登るルートはロープウェイ・リフトのほかにもあるので、下りは楽ちんだから、山道の自然を楽しみながら県庁のほうへ出ることにすれば良かったかなとちょっと後悔。それでも、予定通り元の道に向かったのは、ロープウェイ街の途中で「秋山兄弟生誕地」という道標を見つけて気になっていたからだ。

んで、今度はロープウェイで下山。乗り場のコインロッカーからキャリーバッグを取り出して大街道駅方向へ戻る。さっきの道標の角を左へ曲がって40mほど行くと、「秋山兄弟生誕地」があった。秋山兄弟は毎日、松山城を見上げたり登ったりして育ったんだろうなぁとその近接さかげんを実感。

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入場料300円。入り口を入って右手に馬に乗った秋山好古像、左手に秋山真之の座像が建つ。生家を再現した建物の中に入ると、係りの人が秋山兄弟の想い出を孫たちが語る10分ほどのビデオを大型テレビに映してくれて、それが終わるとガイドのおばさんが説明して回ってくれた。

好古も真之も明治人らしいサムライである。日本の男の中の男である。

大日本帝国海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の参謀としてロシア帝国海軍バルチック艦隊の殲滅に大活躍した真之は晩年、これからの戦争は航空機と潜水艦がカギを握るようになると予言するとともに、いかなる事態になろうともアメリカとは決して事を構えていはいけないと口を酸っぱくして語っていたそうだ。米国留学でアメリカの実力を十分に分かっていたのだろう。

それにしても、真之の忠告通り、日米開戦を避けて平和外交に徹していたなら、日清、日露戦争で勝利してアジアの植民地化されていた国々に独立の機運をもたらした日本という国は今ごろ、世界中から尊敬を集める存在でいられたろうに、馬鹿な連中をのさばらしてしまった代償の大きさを改めて思い知らされるというものだ。

日本の騎兵隊の創設者で陸軍大将にまで昇進した好古も、海軍中将で早逝した真之も、軍人の道を選んだのは家が貧しかったためで、当時の貧乏な家の子供たちの唯一の立身出世の道が陸軍士官学校や海軍兵学校に進むことだったというガイドの話が印象に残る。

そういえば、30代の夫婦と飲んでいるときに、何かの拍子に小生が連合艦隊に触れたときのことを思いだした。夫婦の奥さんのほうが、すぐさま「T字戦法っ!」と叫んだのだ。若いのに良く知っているなと思ったら、「弟が軍事オタク」なんだとか。そんなことを思いだしつつ、外に出たらもう午後4時。

大街道駅から路面電車で松山市駅へ。160円、11分。

16:25松山市駅発のリムジンバスで松山空港16:45着。

17:15松山発のANA便で18:40羽田着。

わがスマホの歩数計によると18日の歩数は1万7124。それにしても、松山ほどいくつもの超一級ばかりの観光資源を短時間で効率良く見て回れる観光地を私は知らない。

2015年10月15日 (木)

越前朝倉氏の城下町を訪ねる

北陸新幹線に初めて乗って13日(火)に金沢で一泊し、14日(水)に福井で午前1件、午後1件の取材の合間に、朝倉氏遺跡のある一乗谷まで足を延ばした。

福井駅から車で30分程度で一乗谷に着く。これぞ「日本のふるさと」という山間の風景の中を奥へ奥へと走っていくと、周りに遺跡の発掘跡を保存してある場所が散見しだす。

さらに奥まで行くと、休憩室なとがある管理棟が出現。そこで入場料210円を払って城下町の復元地域へ。

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職人の家が並ぶ庶民の町屋↑や武家屋敷↓などを観ながらぶらぶら進む。

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医者の家の裏庭には井戸も↓

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道路を挟んで向こう側はお殿様のお館が広がる。

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この奥には朝倉義景や孝景の墓、義景の母の居館跡などが散在しており、さらにずっと上のほうまで樹木が生い茂る山を登っていくと一の丸、二の丸、三の丸、千畳敷や神社などから成る城跡があるらしい。残念ながら時間がなくて行けなかった。

管理棟でもらった地図をみると、足羽川から山道に入る場所に巨大な石で門が築かれており、そこから山間に一本の長細い線が続く。その線全体が城下町だ。まさに谷が城下町になっている。

朝倉の殿様たちはこんなど田舎でのびのびと馬を駈け巡らせながら青春時代を送っとったのかぁとしみじみ思いを馳せてみる。5代103年間続いた栄華は、むなしくも織田信長の手で灰燼に帰されてしまったのである。

いつの日か紅葉の盛りに来て、一日ゆっくりと時間をかけて散策してみたい場所だ。

帰りに踏み切りで待っていると、恐竜のゆるキャラが描かれた1両の列車が走ってきて、足羽川にかかる鉄橋を渡っていった。

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福井は「恐竜王国」なんだそうである。

駅にもいた↓

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2015年10月12日 (月)

ノーベル賞に思う

今年のノーベル物理学賞に梶田隆章東大教授が選ばれたとの報を聞いて思い出したのは、戸塚洋二先生に宇宙線観測施設スーパーカミオカンデの内部を案内してもらったときのことだ。

戸塚先生は、梶田教授が受賞決定後の記者会見でその名に言及し、新聞各紙の解説にも欠かさず触れられていたように、素粒子ニュートリノ研究では梶田教授の先輩にあたり、本来なら、今回のノーベル物理学賞を受賞していたはずの人である。

小生が戸塚先生にお会いしたのは2002年8月。スーパーカミオカンデのある岐阜県神岡町(現飛騨市)でのことだった。新聞で「科学技術立国」キャンペーンを展開していて、国の大型科学技術プロジェクトの現状をレポートする連載の一環としてだった。前年の11月に、スーパーカミオカンデの壁一面に1万個以上も張り付けられた「光電子増倍管」というハロゲンランプのお化けみたいな形をした巨大な光センサーの大部分が連続して爆発するという事故があり、同実験施設は修復工事をしているところだった。

戸塚先生にアポを取れたのは良かったが、ローカル鉄道だと時間がめちゃかかるし、現地で移動しにくいため、本当は会社の規定に違反するのだが、マイカーを運転して行った。中古のアコードに乗り、ウロ覚えだが、長野県の戸倉上山田温泉辺りを通って、岐阜に抜けて行った気がする。

神岡町に着くと、まだアポの時間まで間があったので、道の駅で一服。その近くに石のプレートが建っているので、何だろうと見てみると、「極大は極微を住まわせるが、極微は極大を支配する  戸塚洋二」と刻まれている。さすが、この町では有名人なんだなと納得。

その足で、「東京大学宇宙線研究所附属神岡宇宙素粒子研究施設」へ。同研究所長の肩書きを持つ戸塚先生が直接、出迎えてくれた。スーパーカミオカンデで収集するデータをモニター、分析する施設なんだが、スーパーカミオカンデそのものが事故で休止しているうえ、夏休みということで学生もほとんどいなかった。

施設長の部屋かそれとも所長の部屋があったのか忘れたが、1対1でじっくりと話を聞いた。これもウロ覚えだが、ニュートリノに質量があることを発表した際、観客が総立ちとなって万雷の拍手を送ったという話題のシーンで、発表者は梶田教授ともう一人、鈴木厚人現岩手県立大学長だったと聞いたように思う。当時の研究のリーダーだった戸塚先生は2人が発表する様子を関係席だか観客席だったかで見守っていたというように聞いた印象だ。ただし、勝手にそう思い込んでいるだけで、記憶違いかもしれない。

科学にも宇宙にもましてや素粒子にもまったく疎い小生の質問に、戸塚先生はひと言ひと言言葉を選ぶように、わかりやすくていねいに答えてくれて、ほっとしたのを覚えている。一夜漬けで勉強していった甲斐があったのか、「飯田さんのように、よく勉強している記者さんばっかりだと助かるのですがね」と、おだててもくれた。道の駅のプレートの話をすると、前身のカミオカンデの時代から20年以上にわたり1年の半分を神岡で過ごす生活を続けているので、町の人たちの同級会などの集まりに講演で呼ばれることが多く、プレートもそういう機会に頼まれて揮毫したものだと教えてくれた。

ニュートリノという最小の物質と広大な宇宙の関係を言い表した戸塚先生の言葉なのだ。

インタビューを終えると、スーパーカミオカンデに案内してくれた。小生のクルマは研究施設に置いて、戸塚先生が運転するクルマで向かう。車中、科学技術プロジェクトの是非論に話が及び、先生は「私たちの研究は、確かに経済にすぐに役立つものではないが、エレクトロニクスの研究と同じで、50年もすればきっと世界の発展に貢献する技術になると確信しています」と力を込めたのを覚えている。

スーパーカミオカンデは鉱山の跡に造られたので、入り口はまさに坑道に入るような感じだった。直径40m、深さも40m強という円筒状の穴が出現。本来は巨大な魔法瓶のごとく純水で満たされているのだが、今は工事中で水を抜いているので、下まで案内しますという。こりゃ、シャッターチャンスと喜び、備え付けのヘルメットと軍手を借りて簡易エレベーターで魔法瓶の底へ。いちばん下にはまだ水が残っていて、そこにイカダのように浮かべた足場に立って上を眺めると、その巨大さが実感できる。戸塚先生がこまごまと説明してくれたが、もともと下手なカメラで少しでも新聞で使えそうな絵を撮ろうとシャッターを押すのに必死で、あんまり理解できなかった。「こんなところまで見学した記者はあなただけですよ」と教えてくれた。修理中というタイミング故の幸運だった。

見学を終えて、スーパーカミオカンデの外に出ると、戸塚先生は「私も(所長として)ここへ来るのは、きょうが最後になります」と明かした。翌月の9月からつくばにある高エネルギー加速器研究所(現高エネルギー加速器研究機構)の所長に栄転することが内定していたのだった。神岡は先生にとって「第二の故郷」だけに、栄転のためとはいえ、少し淋しげにみえた。

クルマを取りにいったん研究施設に戻り、インタビューのお礼をしてから一人で神岡町役場に行った。神岡町長にもインタビューするためだ。役場に入ると、入り口にで~んと光電子増倍管が1個置かれていて、町を挙げてスーパーカミオカンデを応援していることがよくわかった。

民宿風の旅館の女将さんたちも、スーパーカミオカンデの取材で来たというと、「毎年、ノーベル賞発表の季節が近づくと、町中そわそわするんですよ」と話していた。

スーパーカミオカンデの前身のカミオカンデを神岡町に創設した小柴昌俊東大特別栄誉教授のノーベル物理学賞受賞が決まったのは、まさにその年の10月のことだった。小柴先生の直弟子が戸塚先生で、その後輩が梶田教授だ。

その後、1年ほどして、小柴先生にインタビューする用件ができて東京・本郷にある東大宇宙線研究所を訪ねたとき、偶然、帰り際に戸塚先生にお会いした。「昨年の夏に…」と再会の挨拶をすると、すぐに思い出してくれて、小生が書いた記事のお礼まで言ってくれた。

直腸がんを患い、逝去されたのを知ったのはそれから5年後の2008年のことだった。直前に月刊「文藝春秋」に登場するなど、病気を公表し、最期まで気骨のあるところをみせていた。

享年66歳。改めて、ご冥福をお祈りします。

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